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2011/12/03

本所開拓

墨田区本所は時代劇でおなじみの町だ。時代劇というと登場する人物の多くが
一般庶民なので、私はこれまで「本所は庶民の住む下町」と単純に考えていた。
ま、本所のことも墨田区のことも何も知らなかった、というのが本当のところだ
けれど。

最近になって江戸に多少興味がわいてきて、墨田区役所とすみだ郷土文化資料館で
やっていた「本所開拓の歴史」資料展を見に行った。

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江戸市街は「明暦の大火」で未曾有の被害をこうむった。幕府は江戸を防火都市に
再建する必要性を痛感した。そのためには武家屋敷や寺社、町屋の多くをどこかに
移転させなければならない。そこで目をつけたのが、隅田川をわたったところに
ある「本所」だった。

もっとも、古い地図を見ると、本所開拓以前にもすでに武家の下屋敷が多く建ち
並んでいたことがわかる。幕府は正確な測量技術を用いて本所を格子状の街区に
つくりなおし、武家屋敷や町屋を再配置していった。

「本所」は荒蕪地を埋め立てて開拓したため、地盤が低く、インフラ整備が欠かせ
なかった。幕府は人工河川を縦横に開削し(竪川や横川)、洪水を防ぐために
土手や道を高くし、堀川や割下水をさらうといった努力を続けた。

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ところが延宝8年(1680年)、本所は暴風雨が吹き荒れ、高潮が押し寄せて多くの
溺死者が出るという激甚災害に見舞われた。武家屋敷も町屋も水につかり、人が
住める土地でなくなったため、幕府は本所開拓を断念し総上地を行った。

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現在の竪川水門。

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この出来事をこれまで開拓断念という意味で「江東撤退」と呼んでいたが、今回の
展示会では、「新たな見解」として、幕府が本所大改造を計画していたと指摘して
いる。

本所総上地のあと幕府は初期の格子状街区をすべて廃棄し、これまで広かった
道幅を狭めるという街区再編をすすめた。武家屋敷用地をより多く確保するため
だったのではないか。

なるほど、展示会のタイトル「武家地創出」の理由がやっと分かったわ。

展示されていた古文書や古地図には「弘前藩津軽家」のものがいくつもあった。
他にもいくつかの武家屋敷があったようだが、今でも「弘前藩津軽家」の名残が
本所のここかしこにあるから、このあたりでは一番のお屋敷だったのかな。

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現在の北斎通りは江戸時代「南割下水」だった。
この通りに面した緑町公園で行われる「北斎祭り」で、「弘前金魚ねぶた」を作って
いた。

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文字プレート写真はクリックすると拡大します。

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コメント

確かに明暦の大火は日本史の教科書に載ってたのか、その事件だけ知ってました。
インフラ整備に苦心惨憺してはじめて統治できるのでしょうが、あまりその辺の事実を学ぶ機会はないですね。

今、この年になってつくづく歴史の断片や地名や名前だけしか知らないなと思います。
学生時代の歴史の時間ってあまり余裕ないのもわかりますが、古文にしろどんなものでもあまりに断片的すぎますね。

うららさん、私も最近になって、今自分が住んでいる町が歴史の積み重ねの上にあるんだと感じるようになりました。トシをとったってことでしょうか。

私の知識も断片的ですが、興味を持たないより持ったほうがいいですからね。むかしはここが武家屋敷だったんだな~と思うと、味気ない町の風景もちょっぴり違ってみえます。

でもわが町はせいぜい江戸時代ですから扱いやすいですけど、関西は歴史の重量がハンパじゃないので、首を突っ込んだら抜けられそうにないですね。うららさんのブログを拝見していると、理解力が追いつかなくてため息が出ますわ。

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