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2005/03/20

マルタの日本人墓地

マルタ島には多くの日本人が眠る墓地がある。
「カルカーラの日本兵戦没者墓地」だ。

「歩き方」のすみっこに「第一次大戦中、敵の魚雷攻撃を受け59名が亡く
なった」という短い記事を見つけ、行ってみたいと思っていた。

でもその墓地はどこにあるのか。マルタ島はけっこう広いのだ。
分かっているのはカルカーラ(Kalkara)という町の英国軍墓地の中にある
ということと、カルカーラには4番のバスが行くということだけ。

ツーリストインフォメーションで貰ったマップとにらめっこしながら、運転手
さんに「カルカーラに着いたら降ろして」と頼んだ。

でも教えられたバス停で降りると、そこは野原とチラホラ住宅があるだけの
殺風景な場所で、墓地らしきものは見当たらなかった。
「さて、どちらに行ったものか」と途方にくれていると、たまたま一緒にバスを
降りた年配の男性が「どこに行くのか?」を声をかけてきた。

男性はシドニーからマルタに移住してきたオーストラリア人だった。
悠々自適の年金暮らしをしているようだ。
私が墓地を探していると言うと、通りかかる車を止めたりして一緒に探して
くれた。

ようやく見つけた墓地は、昼寝の真っ最中の静かな町にあって、人影も無く
ひっそりとしていた。

malta_031s

入口を入ったところにプレートがかかっていた。ここには幾多の海戦で
亡くなった様々な国の兵士が葬られているようだ。

malta_028s

ここで、この日本人墓地について、ざっと書いておく。

「第一次世界大戦の1917年に、マルタ(当時英国領)はドイツの潜水艦に
よって海上封鎖状態になり、生活物資にも不足をきたした。そこで英国が
同盟国の日本に支援を求め、日本は巡洋艦明石を旗艦とする8隻の艦隊を
地中海に派遣した。
この戦闘で駆逐艦さかき(榊)が魚雷の直撃を受けて大破、乗組員59名が
戦死した。
榊は甚大な被害を受けながらも自力でマルタのヴァレッタ港に帰港し、
世界中の驚きと賞賛を集め(賞賛したのは味方だけでしょうが‥‥^^;)、
感銘を受けたマルタの人々が1918年に鎮魂碑を建立した。
1921年には当時皇太子だった昭和天皇も訪れている。
しかしその碑は第二次世界大戦で破壊され、1973年に日本政府の手で
再建された。」

malta_027s

「日本兵戦没者慰霊碑」は広々とした墓地の最も奥まった場所にあった。
手を合わせてお祈りし、写真を写したのだが、あとでパソコンに取り込んで
みると肝心の慰霊碑の画像だけがない。厳しい直射日光でおまけに逆光
だったので、うまくシャッターを押せなかったようだ。

ともあれ、古代から多くの民族の戦いの舞台となったマルタに、ついに
日本人も登場したのかと思うと、感慨深いものがあった。

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旅・ヨーロッパ」カテゴリの記事

コメント

立派なマルタ島慰霊碑の御写真を見て感激してしまいました。今年は第一次世界大戦終戦90周年です。 日本は英米仏伊ルーマニア等とともに一応戦勝国でした。開戦後日英同盟に基づき日英連合軍がチンタオのドイツオーストリア同盟軍を攻略し、はるばる地中海マルタ島を根拠地にして日本海軍が英米仏伊の輸送船をドイツやオーストリアのUボートの無差別攻撃から守り抜いたのでした。また以外に知られていませんが、当時の日本海軍は太平洋からインド洋にかけてドイツ海軍の通商破壊戦から連合国の輸送船団を広範囲に護衛して欧州西部戦線への補給を支えたのでした。今もそうですが所詮世界は弱肉強食、当時の欧州列強のアジア進出から日本を守ろうと必死だった御先祖様達に深い敬意を覚えます。私は11月11日を戦勝記念日として個人的にお祝いし、チンタオや地中海で戦死された御先祖様達の冥福を祈るつもりです。

ツシマさん、コメントありがとうございます。

気ままに書いているだけの私のブログなので、読んでくれる人はあまりいないだろうと思っていました。だから昔の旅行記にコメントをいただいて、とてもうれしいです。

マルタ島の「日本兵戦没者慰霊碑」のことを知っている人は少ないでしょうね。
たまたまこの慰霊碑の存在を知り、お参りすることが出来たのですが、世界には人知れず外国の地で亡くなった日本人がたくさんいらっしゃることでしょう。

そういう人々の思いをしのぶ旅ができたらと思います。

私は戦争に関して通り一遍の知識しかないのですが、旅の友人「ろまねすくさん」のhttp://www.asahi-net.or.jp/~mf6t-tkhs/
体験記「曠野を流浪って八年、終戦後の八年間旧満州残留放浪記」を読ませていただいて、大きな衝撃を受けました。

どんな冒険談もこの体験記のまえには霞んでしまいます。

インターネットは、これまで知らせることができなかった個人的な体験や意見を、多くの人に伝えてくれますね。

拝見させていただきました。
雷撃を受けて大破した榊ですが、自力でマルタのヴァレッタ港には帰還しておりません。
大破した榊は動くには動きましたがとても航行しているという状態ではなく、救難信号を受信して救援に駆けつけたイギリス海軍駆逐艦リップル号により戦闘海域から曳航されて離脱しています。
そしてクレタ島のスダ港に入港して負傷者は英軍病院へ収容され、戦死者は荼毘にふされて仮埋葬されました。
スダ港では修理不可なので再び曳航されてギリシャのピレウス港の造船所で修理されております。

どこで広まったのかは知りませんが、雷撃を受けて大破した榊が自力でマルタまで帰還したというのは作り話で史実ではありません。

戦史研究者さん、いろいろとご教示ありがとうございます。

だいぶ昔の日記なので(まだインターネットになる前、パソコン通信の旅行記に書いたものをそっくり写したのだと思います)何をもとにその記事を書いたのか、今はまったく思い出せません。

つい最近になって「マルタの碑-日本海軍地中海を制す- 秋月達郎著 」を読みましたので、たぶんそれには正確ないきさつが載っていたのだと思いますが、何せ読解力が乏しくてよく覚えていないのです。

マルタ島という日本から遠く離れたヨーロッパの小島に旅行して、思いがけず日本との縁を知り、感動したことだけはよく覚えています。

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