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旅・その他の地域

2008/06/28

カサブランカ

ここのところ少し落ち込み気味だったので、心機一転と新宿を歩き回ってきた。
やっぱり新宿はいいね。私の肌に合っている。新宿復帰したいな~。

コーヒーショップで新聞を開くと、暗いニュースが目白押しだ。
とくに家族皆殺し事件が目につく。よくも悪しくも家族の存在って重いものだと、
親も子もない私はたじろいでしまうのだった。

景気停滞だの値上げラッシュだの年金入力ミスだのと、ろくでもない記事ばかりの
中に、少し参考になりそうな「一石二鳥 ホビングリッシュ」という特集があった。

「趣味や関心あることを英語で習う」というもので、各国料理を英語で習う教室
などが人気だという。たしかに何か目的があったら、英語学習も続けられるんじゃ
ないかしら。

私も英文を読むほうはそこそこ出来るんだけど、聴いたり話したりの会話が苦手
なので、ホビングリッシュのつもりで「名作映画で英会話」という雑誌を買って
みた。映画全編収録のDVDつきで1冊1300円と安い。
「ローマの休日」「嵐が丘」などスタンダードな作品が並んでいる中から、選んだ
のは「カサブランカ」

ウィキペディアによると、この映画は不滅の人気を誇るロマンスで、主役の二人
ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンは、それぞれ映画スターベスト
100(1999)の男性1位と女性4位に選ばれている。

私もカサブランカは何度か見ているし、年代を問わず誰にでも分かる正統派の内容
なので、字幕なしで見ても理解できるだろう。

カサブランカにはモロッコ旅行のときに滞在したが、映画の面影を残すところは
どこにも無かった。有名ホテルの片隅に「リックのバー」とやらがあったけど、
単なる観光カフェだったもの。

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向こうに見えるホテル・ハイアットリージェンシーに映画をモデルにしたバーがある。

それにしてもハンフリー・ボガートは、ハンサムでもないし背も高くないのに、
どうしてあんなにカッコいいんだろう。

やっぱり時代が生んだヒーローなんだろうな~。

ハンフリー・ボガートときくと、「男はタフでなければ生きて行けない。優しく
なれなければ生きている資格がない」 という、ハードボイルドの有名なフレーズが
浮かんでくる。男は男らしく、女は女らしく、という時代だったんでしょう。

でも今の時代にこんなことを言う男性がいたらギャグのネタでしょうね。
残念ですけどdespair

2006/02/04

南米ボリビア

ボリビアの民族舞踏の話を聞いたので、ちょっとボリビアについて書いてみる。

私がボリビアに行ったのは何年前だろうか。
フジモリさんが大統領だったころにペルーに行き、その時隣国のボリビアまで
足をのばすつもりだったのだが、高山病でダウンして一週間以上もクスコに滞在する
はめになり、ボリビアは断念せざるを得なかった。

そのリベンジで翌年ボリビアのラパスに行ったのだ。

ラパスはクスコよりも高いところにある。
クスコよりも都会だが、クスコと同じようにすり鉢状の谷に張りつくように家々が
建っている。空港は、当たり前だがすり鉢の上にあるので、標高は4000m位だろう。

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街の中心地はすり鉢の底にある。高級住宅街は低いところにあり、坂道を上がるに
つれて貧しい人たちの住む地域となる。低いほうが酸素が濃いからだ。高地に来ると、
普段は気にしない酸素の有難さを痛感する。

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すり鉢の上辺には貧しいインディヘナが住む。

クスコで高山病になった私は、ラパスでも当然のように高山病になった。
コカ茶が利くと言われてガブガブ飲んだが、ほとんど効果が無く、手足が冷えて
毎晩眠れなかった。私は高山病になって初めて冷え性のつらさを知った。
持って行った「ほかほかカイロ」は沸点が低いせいか暖まらず、けっきょく皆捨てて
しまった。

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到着した日は路上で売られていた果物と水を買ってきて食べた。
起きるのもやっとの状態だったけど、何か食べないと観光どころではない。

でも高山病をのぞけばボリビアはとても居心地の良いところだった。
ペルーはラテン系だが原住民比率の高いボリビアは素朴で温厚な人が多く、治安も
ペルーよりずっと良いように感じた。

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2~3日すると頭痛薬を飲んで何とか動けるようになった。
私の経験から言うと高山病には市販の鎮痛剤が効果がある。チベットに行ったとき
地元に人によく利く漢方薬を勧められたし、ペルーではコカ茶を勧められたが、
どれも私にはイマイチだった。
でも鎮痛剤も万能ではない。一番はとにかく高度に慣れることだ。

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何とか動けるようになってからは、街歩きを楽しんだ。
ラパスは食べ物が美味しい街で、大きな市場もあったし、街角の屋台でもいろんな
スナックが売られていた。

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地元ツアーで(といってもお客はフランス人カップルと私だけ)チチカカ湖にも
行った。富士山よりも高い場所にあり、琵琶湖の12倍という広さのチチカカ湖。
海のように広いのでいくつもの島があるが、その一つスリキ島にモーターボートで
渡った。この島は葦舟の製造をしていたそうで、コンチキ号漂流記の航路地図が
かかった物置小屋のようなミュージアムなどがあった。

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チチカカ湖畔の世界遺産には「謎の遺跡、ティワナク」もある。
ここにはタクシーをチャーターして行った。広い野原の中にとり残されたように
広がる遺跡には、地元インディヘナの家族以外に見学者の姿は無く、不気味な
雰囲気が漂っていた。

2005/08/16

砂漠のバラ

鉱石マニアのまみさんの「砂漠のバラ(ローズ・ド・サハラ)」の話を聞いて、
モロッコ・カサブランカの市場で「サハラの薔薇」をお土産に買い込んだことを
思い出した。

それで引き出しの奥を探して、お土産の残りのローズ・ド・サハラを探し出した。

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手前は砂漠に転がっていたものをそのまま並べただけの「砂漠の薔薇」、奥は
置物風に加工したもの。
右の色水の入った瓶はエジプトで買った手作りの香水。何年も封をしたままだから
果たして香りがするかどうか。
よく分からないのは左の二つの石。モロッコかチュニジアかエジプトで買ったか
拾ったかしたものだと思うけど、今となっては何の石なのかサッパリ見当がつか
ない。

「砂漠の薔薇」なんて、ネーミングこそロマンチックで「アラビアのロレンス」を
思い浮かべてしまうが、実は砂漠に行けばいくらで転がっているありふれた物体
なのだ。

モロッコ市民の皆さんはそれを拾ってきて、市場で観光客に売っていた。
何せ元手がタダだから売値も二束三文。でも日本に持ってくりゃどこか謎めいた
宝石っぽくなる。
ちょっと重いのが難点だったけど、安上がりの良いお土産だった。

その市場ではアンモナイトもたくさん並んでいた。
サハラ砂漠はアンモナイトや恐竜の化石が埋まっていると、現地で出会った日本人
青年から聞いた。彼は「青年海外協力隊」で発掘などのお手伝いをしていたとか。

サハラ砂漠も古代は緑豊かな大地だったのだ。

最近ラピスラズリに関心をもったおかげで、鉱石の展示会などを見る機会が増えた。
これらの展示会には、パワーストーンや鉱石に混じってアンモナイトの化石も
数多く売られている。けっこういい値段。

カサブランカの市場にもいっぱいあったなあ。その時は興味がなくて買わなかった
けれど、こんなに高い値がつくのならドッサリ買い込んでくれば良かったなあ。

2005/04/24

ボリビアのエケコ人形

海外旅行先で買ったお土産の中で、私がもっとも気に入っているのは、
下の写真の「エケコ」である。ボリビアのラパスで買った。

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ボリビアは銀の産出国で、ラパスの中心街にも銀製品のお店がたくさん
並んでいる。その中に「エケコ」があった。
これは銀製のエケコだが、もっと素朴なものが民芸品として色々売られて
いる。

エケコは「富の神様」なので、全身に財産をドッサリ身に付けている。
もっとも財産といってもバケツだのギターだの傘だの素朴な品物ばかり
だけれど。

後姿はこんな感じ。

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自分用のお土産を買うことは滅多に無いが、目に付いたものを買っているうちに
余ってしまい、結果的に自分用になってしまった物は多い。

そんな経験から得た教訓。
お土産買うとしたら、友達にプレゼントしても自分で使ってもよい実用品が一番。

そんな余り物の中での私の「お気に入り」が、台北は「故宮博物院」のグッズ
「名刺・カードケース」である。

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ミュージアムグッズ、それも実用品として使える物は、かさばらないし洒落ているし、
そこにしかない物なので、お土産には最適だと思う。

2005/03/06

ソ連末期のモスクワ(つづき)

モスクワに行ったのは夏だったが、駅などで花売りしている
おばさんは皆分厚いコートを着ていて、真冬のような恰好だった。

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これはどうしてなのかな?
夜になると寒いからだろうか?
でもそんな深夜まで花売りしているとは思えないけど。

2005/03/03

ソ連末期のモスクワ

ペレストロイカやグラスノスチ(←かろうじて覚えていた)のお陰で
モスクワにストップオーバーできるようになった頃、2泊3日の
モスクワ滞在をした。

もっとも自由化と言ってもそこはソ連のこと、前もって狸穴のソ連
大使館まで足を運び、ビザを発給して貰い、そのビザを貰うために
旅行社でホテルを予約してと、面倒臭い手続きが必要だったが、
それでもモスクワ市内を一人で歩き廻れただけでも大進歩という
ものだ。

まだまだソ連を個人旅行する人が少なかったので、マトモなガイド
ブックがなくて困った。地下鉄に乗ったはいいものの、キリル文字
だらけで駅名が分からない。路線も分からない。山手線のように
ぐるっと一周する路線があったので、迷ったらその電車に乗って
見覚えのある駅で降りるようにした。

観光名所も「赤の広場」くらいしか知らなかったので、とりあえず
そこに行った。赤の広場に面してデパートがあったが、品揃えは
お粗末だった。(下の写真はデパート)

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お腹が空いたのでレストランを探したが見つからない。
赤の広場から大通りをトボトボ歩いていると、戦艦みたいにデッカイ
ホテルの前でボーイが私に「5ドルでフルコースだよ」と声をかけて
きた。「ふん、どうせロクな料理じゃないだろう。でも飢え死にする
よりマシか」とボーイに5ドル紙幣を渡し、あとに付いてホテルに入った。

ロビーからつづく豪華な赤絨毯の階段を上がると、そこに高級そうな
インテリアの広いレストランがあり、沢山の観光客が食事をしていた。
ボーイに案内されて私もテーブルにつく。するとまもなく次々と料理が
運ばれてきた。この食料難のソ連の何処に、こんなに沢山の食べ物が
あったんだ~と呆れるくらい。「食べきれないからもういらない」と言っても、
ボーイは機械的に運んでくる。デザートのエクレアなんか勿体ないけど
残しちゃったものね。

ところであの5ドルはボーイのポケットに入っちゃったんだろうか?
勘定書きのようなものは一切なく、それにメニューもなくて、ボーイが
調理室からセッセと運んできたものを食べるだけだった。
5ドル紙幣1枚だけってのも変だよね~?
私はルーブルをいっぱい持っていたから、出来たら使いたかったのに、
ボーイは「5ドル!」と譲らないのだ。

まあ何はともあれ満腹になって、街歩きする元気が出てきた私は、
赤の広場からホテルがある方向へと歩いて行った。道に迷ったら
地下鉄に乗ればいい。

そうやって歩いていると、やけに立派な銅像のある広場に出た。
「あれ~、この銅像は誰だったっけ」としみじみ見上げるが、見知らぬ
顔だ。マルクスやレーニン、それにゴルビーなら知っているけど、これは
初めて見る顔だ。でも銅像の出来からしてかなりの有名人に違いない。

私は広場を取り囲む建物の前に腰をおろして、しばらくの間銅像を
眺めていた。記念に写真を撮ろうかなと一瞬思ったのだけれど、
知らない人物だったので結局撮らなかった。
でもこの日から1週間後、私はおおいに後悔することになる。

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モスクワは個人商店がチラホラ出始めた頃で、ソフトクリーム屋と
ビールスタンドが目に付いた。街角でいきなりケーキを売る人が
現われると、どこから聞きつけたのか人が取り囲んで次々に買って
行く。ゲリラ的に商売する人が多いようだった。(↑上の写真)

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市内各所では長い行列が出来ていた。何の行列か分からなかった
けれど、モスクワの人は慣れ切っているのか、交替に列を離れて
また戻ったりしていた。(郵便局で列に並んだときの経験から)

モスクワからポーランドを廻って日本に戻った2日後に、衝撃的な
ニュースが飛び込んできた。
ゴルバショフが監禁されたかの「クーデター事件」が起きたのだ。
エリツィンが戦車の上に飛び乗って大演説をぶちまくり、主役に
躍り出たのはご存知のとおり。

テレビに映し出される風景は、つい先日私が歩いた場所だったので、
いっそう臨場感があった。

でも私が最も衝撃を受けたのは、民衆がKGB長官の銅像を引きずり
倒す光景だった。
「あ~あれは!」
テレビ画面の中にあったのは、モスクワの広場で眺めていた、かの
正体不明の銅像ではないか!

ビックリして、そのあと言葉が続かない。
それからじわじわと悔しさがこみ上げてきた。
「やっぱり、あのときに写真を撮っておけば良かった。悔しい~」

もう少しで歴史的事件に遭遇することが出来たのに、ニアミスで
そのチャンスを逃してしまったと思うと、二重に悔しい私だった。

2005/02/05

イスタンブール夜景

アテネの空港でさんざん待たされて、ようやくトルコ航空機がイスタンブールに
向かったのは、予定より数時間も後だった。貧乏航空会社の便は離陸が
後回しにされると聞いたことがあるが、ヨーロッパ各国の飛行機がどんどん
発っていくのに、トルコ航空機はいつまでたってもディレイのまま。
イライラしたり情けなくなったり(何も私が情けなくなることないが)もう何でも
いいやと投げやりな気持ちになった頃、やっとチェックインが始まった。

もっともアテネとイスタンブールはすぐ近くなので離陸したら早い。
乾パンみたいな機内食をかじっているうちに、あっという間にイスタンブールに
到着した。

初めてのイスタンブール‥‥ホテルは予約してあったが、どうやってそこ迄
行こうか。迷ったすえ空港前に停まっていた市内行きのバスを利用すること
にした。私はタクシーが嫌いなのだ。

でもこの選択は失敗だった。バスを終点で降りた私は、途中から振り出した
雨の中スーツケースを引きずりながらウロウロと歩き廻るハメになったのだ。
ガラタ橋近くの高層ホテルだからすぐ分かると思っていたのに、辺りは暗く
坂道だらけでタクシーもつかまらない‥‥、本当に泣きたい気持だった。
ホテルにたどり着いたとき私はスッカリ濡れネズミで、疲れ果てて、お風呂に
入って体を暖めるのがやっとだった。食事をする元気もない。もう今日はこの
まま寝てしまおうと思った。

今にして思えば、その時そのままベッドにもぐり込んでいたら、我が旅歴中
トップクラスの感動を逃していたかも知れない。

哀れな旅人に(←私のこと‥‥^^;)神様が幸運をプレゼントしてくれたのだろう
か、ベッドに入る前にふと何気なく窓際のカーテンを開けた私は、その瞬間
全身全霊が凍りつくような衝撃を受けた。

これは、いったい、何という光景なのだ。

目の前に広がる黒々とした海峡とその向こうに広がる旧市街の光の波、
左手にはガラタ橋の明かりが点々と延びている。

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(左に見えるのがガラタ橋)
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私が書くと平凡なイメージになってしまうが、とにかくその夜景を目に
した瞬間、重くのしかかっていた疲れがあっという間に消えてしまった
ほどなのだ。

こうなるとゲンキンなもので、やにわに空腹感が蘇ってきた。
寝るのはやめにしてルームサービスでスパゲティとワインを注文し、
テーブルと椅子を広い全面ガラスの窓際に運んで、夜景を眺めながらの
ディナーとなった。

このイスタンブール夜景はクスコ(ペルー)の夜景とともに、私が見た
いくつかの夜景の中でも飛びぬけて印象深いものとなった。

この旅の後だいぶ経ってから、夕刊紙で五木寛之がイスタンブールに
ついて書いたエッセイを読んだ。
(五木寛之「世界漂流」の中のイスタンブール小景)

五木寛之も私と同じ頃このホテルに泊まり、予期しなかった夜景を
目の当たりにし、私と同じ驚きを感じていたのだ。

でも感じたことは同じでも文章表現力は月とすっぽん以上に違うので、
このエッセイを読んだとき「これで私の感動を他の人にも分かって貰える」と
嬉しかった。

2005/01/29

チュニジアンブルー

チュニジアはマグレブ諸国の中でも最もヨーロッパに近いと
思う。地理的にもそうだが文化的にもそう感じる。

チュニスから郊外電車に乗ってしばらく行くとカルタゴがある。
紀元前9世紀に建設され、貿易でおおいに繁栄したカルタゴだが、
それがローマの怒りに触れ、英雄ハンニバルの奮闘があった
ものの結局は滅ぼされてしまった。

大国ローマを脅かすほどに繁栄してしまったカルタゴ。
もう二度と蘇ることがないようにと、ローマは焼き払ったカルタゴの
地に塩をまいたという。

だからカルタゴに残る古代遺跡はほとんどローマ時代のものだ。
ほんのわずか、カルタゴの子供の墓地「トフェの墓地」が残って
いるくらい。カルタゴでは幼児を殺していけにえにする風習が
あったのだとか。

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現在のカルタゴは高級住宅街になっている。大統領官邸もここに
あるし、ひたすら美しい保養地「シディ・ブ・サイド」もある。
美しさを印象付けるのは「青」だ。
海の青、空の青、そしてチュニジアンブルーと呼ばれる扉の青。
白壁の家々に、それらの青がいやが上にも映える。

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時間がたっぷりあったら、カルタゴを一日がかりでウォーキング
するのも楽しい。洒落たカフェがあるし、電車も時々やってくる
ので、疲れたって大丈夫。

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チュニジアの青に魅せられて、ナブールという焼き物の町で
タイルを買った。買ってからちょっと後悔した。割れる心配が
あるし重くて持ち運びにも困る。でも買ってしまったものは
仕方が無いので、手荷物に入れて抱えて日本に帰った。

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今このタイルは我家のテーブルの上で「鍋敷き」になっている。

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(左はチュニジア、右はオランダかポルトガルのタイル)

エジプトは凄かった

湾岸戦争が始まる頃、エジプト一人旅をした。
ろくに下調べもせず、ピラミッドでも見てこようか~と、
軽い気持ちで向かった私。それが無謀だと気がついた
のは、カイロに着いてからだった。

戦争のせいで観光客が極端に少なく、特に日本人と
アメリカ人は誰もいないと現地の人がぼやくほど。
だから数少ない日本人の私はエジプト人の生活の糧
みたいになってしまい(;_;)、何処にいても、「タクシー」だの
「これを買え」だの「ガイドする」だのと絨毯爆撃を受けた。

ルクソールで乗ったタクシー運転手が、「お~、日本人か。
オレは何てラッキーなんだ!」(日本人はぼり易いから)と
私に向かってぬけぬけと言ったときは、「このやろ、負ける
もんか」と一悶着起きるのを覚悟した。
(旅行中に自分の性格が変わったのは、後にも先にも
このエジプト旅行の時だけ‥‥^^;)

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朝から晩までそんなことの連続で、子供は可愛げがないし
(バクシーシが少ないといらないと返してくる)、頼みもしない
のに荷物を勝手に持って行ってチップを要求してくるし、
(私の荷物を大人も子供も狙っていて、隙をみてサッと持って
行く。でもドロボウではなく、ちょっとだけ動かして、運び賃
としてチップを要求するのだ)
おまけにどんな約束も守ったためしがない。

悪口を書き出したらキリが無いほど(^^;)

私はシンガポール航空で行ったのだが、帰途チャンギに
立寄ったとき、エジプトとの余りの違いに呆然としてしまった。
あの喧騒は、あの混沌は、いったい何処にいったの?
静かで、整然としていて、誰も私に無関心。チャンギにいる
ことが、しばらくは現実として受けとめられなかった。

こんな過酷な旅だったけれど、そのせいでエジプトは私の
記憶にいつまでも鮮明に残っている。

2005/01/26

モロッコのクスクス、シチリアのクスクス

クスクスと言っても、国や地方によって随分違う。

まずはマラケシュ(モロッコ)のホテルで食べたクスクス。
とんがり帽子の器がウリだ。

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細かい粒子の穀物(デュラム・セモリナだったっけ?)の上に、
マトンや大きめ野菜を煮込んだトロッと甘いスープがかかっている。
量が多くて、味も甘すぎて、ちょっと持て余してしまった。

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赤ワインはモロッコ産。イスラム国なのに、お酒なんか造って
いいの~?飲まなければいいのかな。

シチリアのトラーパニでもクスクスを食べた。
アフリカが近いのでクスクスがポピュラーな料理になっている。
でも味はモロッコで食べたものと大違い。
魚介類の味がしみ混んだサラサラとしたスープ、文句なしに
絶品だった。

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名前は同じクスクスでも、これは別の料理と言っていいだろう。

トラーパニはマグロが獲れる港町で、日本漁船なども来るようだ。
でも私が訪れた時は、マグロ漁の季節でないのか、日本人は
見かけなかった。

トラーパニの近くにはワインで有名なマルサーラ、そしてカルタゴの
保養地だった小島「モツィア」がある。カルタゴの遺跡が見たくて、
このモツィアに行ってきた。でもシーズンオフだったので、バスは
少ないし、人はいないし、寒いしで、苦労した。

モツィアに渡る船が着く辺りは塩田が広がっている。
この光景だけを見たら、シチリアとは思えないんじゃないかしら。

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